富士登山のはじまり ~聖徳大師から末代上人まで~
飛鳥時代に修験道の祖・役小角(えんのおづぬ)が伊豆の島から夜に海の上を走ってやってきて富士山に登り、朝には戻っていった、という伝承や、聖徳太子が甲斐の黒馬に乗り、空を飛んで駆け上がったといった伝承が残っています。
吉田口八合目の「太子館」や山頂の山のひとつ「駒ヶ岳」など、これらの伝承をもとにした名が現在も残っています。
奈良時代から平安時代にかけて、富士山を詠んだ和歌がいくつも残されていますが、この時期は噴火が相次いでおり、富士登山に関する記録は残っていません。噴火が休止した平安時代末期から修験者が富士山で修行を行うようになったといわれ、その中で最も著名な人物が末代上人で、1132年に初登頂し、その後数百回富士山に登り、山頂に大日寺を建て「富士上人」と呼ばれたと伝えられています。
その後、末代上人の流れを汲む修験者によって村山浅間神社から頂上へと向かう登山道(現在の富士宮口登山道の一部)が開かれ、室町時代になると一般の信者も富士山に登るようになりました。
富士登山ブーム到来!~江戸時代の富士講~
江戸時代になると、江戸の庶民を中心に「富士講」が栄えました。「富士講」は富士山に登ることを最上の目標とした宗教の団体で、その団体内でお金を出し合い、毎年富士講の中から選ばれたメンバーが講を代表して登山し、そのご利益をメンバーで分かち合いました。
関東各地で富士講によって富士山に見立てた「富士塚」が造立され、現在も残っています。
江戸を出発した「富士講」が富士登山する際に向かったのが須山口(現在の御殿場口登山道の一部)、須走口、吉田口で、そのうちの吉田口が最も多く利用されたため、麓の上吉田(現在の富士吉田市)が他の登山口を圧倒して発展することになりました。
幕末になってからは富士登山を行う外国人も現れ、この頃から富士山が外国人から注目されていたことがうかがえます。
交通の発達と富士登山の変化 ~明治から昭和の富士登山~
明治時代は富士山にとっても大きな変化が起きた時代でした。
1868年の神仏分離令によって起こった廃仏毀釈運動で、頂上の大日寺が富士山本宮浅間大社の奥宮になり、頂上の山の名前から仏教色が一掃されるなど富士山の信仰が神道色の強いものへと変化していきました。
明治中期には東海道本線・中央本線の開通とともに登山口までの馬車鉄道が整備され、徒歩で東京から3~4日かかったところ、わずか1日で麓まで到達できるようになり登山者が急増します。
山梨県は富士山観光に力を入れ、登山道の整備や山小屋の改築が行うようになりました。この頃から夕飯にカレーライスを出し、二段ベッドで寝る現在の山小屋のスタイルができあがりました。
その後も富士山へと向かう鉄道、道路が徐々に整備されてゆき、1964年には富士スバルラインが開通。麓から五合目まで一気に登ることができ、富士山の観光客、登山客は更に増加しますが、五合目より下の山小屋の廃業、富士講の衰退も起こりました。
世界文化遺産登録へ~平成の富士登山~
平成に入ると、富士山独自の植物や富士山信仰の文化が注目され、世界遺産登録を目指して連絡協議会が設置されます。世界遺産登録を目指して、富士スバルラインなど登山口へ向かう道路のマイカー規制や山小屋のトイレを環境に配慮したものへの改修といった、富士山の環境保全活動が行われました。
その後、何度か推薦見送りがあったものの、2013年に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録。これを機に、入山料の徴収や入山規制など、さらなる環境保全に向けた動きが進んでいきました。
未来の富士登山は?
2019年、2度富士山に登った徳仁親王が天皇に即位し、令和の時代が始まりました。
富士登山はサービス面でも進歩を遂げており、2016年に山小屋にWi-Fiスポットを設置するプロジェクト「富士山Wi-Fi」がスタートし、SNSなどの情報発信に対応したサービスが各所で行われています。また、山梨県の政財界では現在の富士スバルラインのルートに登山鉄道を設置し、さらなる観光振興・環境保全を目指す構想があります。
未来の富士登山はどのような形になっていくのか、目が離せません。
富士登山の歴史年表
598年頃 | 聖徳太子が馬に乗り、富士山を登ったという伝説が残る |
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633年頃 | 山岳修験道の開祖・役小角が登頂したとされる |
1132年~1149年頃 | 末代上人が富士山の登頂を数百回繰り返し、山頂(現在の富士山本宮浅間大社奥宮の位置)に大日寺を建立する |
1317年~1319年頃 | 頼尊が富士登山を信者に勧める「富士行」を開始する |
1563年 | 富士講の始祖・長谷川角行が修行を始める |
江戸時代初期 | 富士講が広まり、庶民の間で富士登山が行われるようになる |
1832年 | 高山たつが女性初の登頂 |
1852年 | 宮津藩主松平宗秀が大名として初の登頂 |
1860年 | 初代イギリス駐日行使ラザフォート・オールコックが外国人初の登頂 |
1867年 | イギリス人ハリー・パーク夫人が外国人女性として初めて登頂 |
1868年 | 神仏分離令が発布され、富士講の信仰が神道色の強いものに変化していく |
1872年 | 女人禁制が廃止され、女性も富士登山できるようになる |
1889年 | 官設鉄道(現在のJR御殿場線)御殿場駅が開設される |
1899年 | 御殿場~須走間に馬車鉄道が開通する |
1900年 | 馬車鉄道が吉田まで開業 |
1907年 | 吉田口登山道の馬返~五合目を拡幅し、五合目まで馬で行けるようになる 吉田口馬返・五合目・八合目(現在の本八合目)に巡査派出所・救護所を設置 吉田口八合目と富士宮口頂上に郵便局を設置 吉田口八合目の山小屋を2段ベッドを設けるなど外国人向けに改築する(現在の富士山ホテル) |
1916年 | 須走口登山道が改修される |
1923年 | 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が須走口より登頂される |
1929年 | 大月~上吉田(現在の富士山駅)間に富士山麓電気鉄道(現在の富士急行)が開業 |
1933年 | 静岡・駿東郡青年団が御殿場、大宮(富士宮)、須走3口から清掃登山。「富士山を清浄に」の立て札を建てる |
1934年 | 富士山の登山客向けに新宿駅~河口湖駅間に直通列車が運行開始 |
1936年 | 富士山が国立公園(富士箱根伊豆国立公園)に指定される |
1947年~1950年頃 | 吉田口の七合三勺から七合五勺が「八合目」に、もともとの八合目が「本八合目」に繰り上げられる |
1952年 | 河口湖~五合目間で四輪駆動の特殊バスが運行開始 |
1964年 | 富士スバルラインが開通 |
1969年 | 富士山スカイラインが開通 |
1980年 | 吉田大沢の上部にある久須志岳の一部が崩落、岩雪崩となって六合目下まで落下。登山者多数が巻き込まれ12人が死亡、32人が重軽傷を負う最大規模の落石事故となった |
1981年 | 前年の大落石事故を受け、開設工事が進められていた吉田口の新下山道が6月29日に完成し、下山ルートが現在のものに切り替えられる 吉田口に安全指導センターが設置される |
1985年 | ふじあざみラインが開通 |
1988年 | 浩宮徳仁親王(現在の天皇陛下)が須走口より登山され、八合目江戸屋(下江戸屋)にご宿泊される |
1992年 | 富士山の世界遺産登録を目指し、連絡協議会設置 |
1994年 | 富士スバルラインでマイカー規制導入 |
1996年 | 吉田口登山道が歴史の道百選に選ばれる |
2007年 | 世界遺産候補に国内選出される |
2008年 | 皇太子徳仁親王(現在の天皇陛下)が富士宮口より御殿場ルートを経由して登頂。その後、このルートは「プリンスルート」として定着する |
2009年 | 富士山の案内標識が統一される |
2012年 | 富士山の世界文化遺産の国内推薦が正式決定 |
2013年 | 富士山が世界文化遺産に登録される |
2016年 | 富士山の山小屋にWi-Fiスポットを設置するプロジェクト「富士山Wi-Fi」がスタート |